カール・サフィーナ + ハル・ホワイトヘッド(聴き手:マイク・ガウォレキ)
カール・サフィーナはアメリカのニューヨーク州ロングアイランド島に拠点を置く世界的な生態学者。ラトガーズ大学で海鳥の研究によって博士号を取得した後に海洋生物の研究者となったサフィーナは、初の書き下ろし作品である『海の歌』(1998年、未邦訳)でラナン文学賞ノンフィクション部門を受賞。近著『言葉の向こう側―動物は何を感じ何を思うのか』(2015年、未邦訳)や『野性になる―動物になるために動物が学ぶこと』(2020年、未邦訳)では、最新の科学研究論文をふんだんに参照しつつも一般読者にも伝わる平易な文章で動物たちの内面生活を緻密に描写している。ハル・ホワイトヘッドはカナダのノバスコシア州に拠点を置く生物学者であり、クジラ研究の世界的第一人者。ルーク・ウェンデルとの共著『クジラとイルカの文化生活』(2014年、未邦訳)でクジラやイルカの日常生活における文化の存在や役割を深く考察した。
ガウォレキ モンガベイ・ニュースキャストへようこそ。日付は2020年6月24日。自然界の最前線からニュースとインスピレーションをお届けする、マイク・ガウォレキです。今回のテーマは「動物の文化」。ゲストは作家のカール・サフィーナとクジラ研究者のハル・ホワイトヘッドです。
文化は人間に固有のものであるという見解は今も根強く残っています。グーグルで「文化」の定義を調べてみると「芸術をはじめとする人間の知性の産物」という結果が返ってくる。メリアムウェブスターも「人種、宗教、または社会集団のもつ慣習的信念、社会形態、そして物質的特性」と定義し、文化をホモサピエンスの独壇場として理解している。ところがメリアムウェブスターには「学習能力や後世への知識の伝達能力に基づく人間の知識、信念、そして行動の包括的パターン」という二次的な定義も載っています。これは文化の定義としては狭すぎますし、定義自体がそれを物語っています。人間を中心に据えつつも、同時に「学習能力や後世への知識の伝達能力」が生むものとして文化を広く捉えてもいるからです。動物にも文化を生み出す力があるのだということが後部で認められているわけです。
カール・サフィーナは最新作『野性になる―家族を養い、美を創造し、平和を実現する動物たちの文化のからくり』において、一部の動物種に焦点を絞りつつまさにこの「社会的学習能力と後世への知識の伝達能力」を追究しています。人間の研究者ももちろん登場しますが、主役はマッコウクジラ、コンゴウインコ、そしてチンパンジーです。こうした動物たちは、各々の世界で生きていく上で、社会集団での他の個人からの学びが遺伝と同じくらい大きな役割を果たしている。そのことを本日はサフィーナに解説していただこうと思います。
本書でサフィーナはハル・ホワイトヘッドを「クジラやイルカの社会的学習能力の研究を数十年間も続けてきた…クジラ研究における孤高の先駆者」と呼んでいます。カナダのダルハウジー大学所属の教授であるホワイトヘッドは、マッコウクジラの複雑な社会生活や、クジラ同士が集団や個人のアイデンティティを確立するときに発する独特の呼び声「コーダ」を世界で始めて研究した人たちの一員です。今回ホワイトヘッドにはコーダの録音を番組内で再生し、マッコウクジラの文化や社会的学習能力についてお話をしていただく予定です。
ホワイトヘッド クジラたちはとても親密な社会生活をおくる生き物なのです。遊牧民のように海洋を数千キロメートルも旅するときにも互いの側を離れない。家族で一緒に海を渡り、一緒に食事をし、互いの子守を引き受け、互いの子どもたちに授乳をする。例えばシャチに攻撃を受けたときにも、共同体として自衛にあたります。密接な集団を作って、協力し合いながらシャチを撃退するわけです。
ガウォレキ 動物の文化の研究はまだまだ新しい分野なので、一般に周知が進んでいるとは言えません。そのため、多くの人たちにとって「文化」とは世界各地に特有の食事や衣服、あるいは踊りや音楽や芸術であるにすぎないのです。では、動物の文化について語るとき私たちは何を語っているのでしょうか。カール・サフィーナに聞いてみましょう。
サフィーナ ほとんどの人は文化と聞くとまず人間の文化を思い浮かべるものだ。これは至って自然なこと―そもそも僕らは人間なのだからね。続けて僕らは「他の動物はなぜ音楽行事やダンス大会みたいなことをしないんだろう」というような問いを立ててしまう。もっとも、見方によっては他の動物たちもダンス大会をたくさん開催しているんだけどね。いずれにせよ、人間の文化から出発して人間と同じような文化をもった動物を探すという手順は良くない。そもそも他の動物たちにとって文化とは何なのか、と問う方が本質的なんだ。文化をもつ動物はたくさんいるし、もたない動物もたくさんいる。文化って根本的には人間でも他の動物でも同じものなんだけど、いざそれを表現する段になると異なる形で表に出てくるものなんだ。文化とは、社会的に学習され、社会的に伝達・継承されていくような慣習、行動、そして嗜好のことだ。別な言い方をするならば、狩りの技術のように、本能に基づくもの、本能に従って習得できるようなものではないとも言える。そうではなくて、自分が属する社会集団から学べるようなものごとが文化なんだ。場合によっては狩りの技術もそこに含まれるかもしれないね。熟練の大人と一緒に狩りをして学んだり、母親から教えてもらったり。繰り返すけど、本質的には文化って生物種を問わず同じもので、動物毎に異なり始めるのはそれが表に出る段階での話なんだ。とはいえ、どの生物種の場合でも文化のもつ目的は根本的に同じだと思う。「今自分がいるこの場所で、自分はどうやって生きていけば良いのだろうか」という問いへの答えを与えるのが文化なんだ。関連して―あるいはこの問いから導かれる帰結として、と言ってもいい―言えるのは、ある場所である生活様式に従うとき、僕らは別の場所で生きている人たちや集団内の他の個人とは異なる存在となるということ。つまり、文化は個人を集団へと束ね、集団としてのアイデンティティを与える。それは以前までは人間に固有の性質だと思われてきた。各集団はこうして互いを避け合うようになる。そこからは社会的・生態的な影響だけではなく、進化論的な影響すらも出てくる。保全活動の観点からも影響は大きい。というのも、もし保全活動家に文化への意識がなく、個々の動物を単なる個人としてしかみなさなかったとしたら、実は生存の成否を分ける要素は文化なのだということも知らないまま個体をやぶれかぶれに野生復帰させようとしかねない。
ガウォレキ 地球上の生物の多様性を説明する上で従来までは3つのカテゴリーが用いられてきたが、他方で「文化」という4つ目のカテゴリーはないがしろにされてきた―これこそ本書でサフィーナが主張する最も重要なポイントです。文化には生活様式や生存戦略の多様化を促す力があるのです。
サフィーナ これは僕らの生命観を揺るがす見解だよね。これまで見落とされてきた問題が浮き彫りになってくる―実際にみんなが考えてきた問題だけではなくて、むしろ見落とされてきた問題の方をここでは強調したい。一般に、生物多様性は3つのレベルで理解されている。(1)生物種内の遺伝的多様性。例えばヒトで言えば、黒髪、金髪、茶髪といった多様性がある。(2)生物種間での多様性。例えばイヌ科にはオオカミ、コヨーテ、キツネ等の生物がいる。哺乳類と鳥類と無脊椎動物といった系統発生的(ファイロジェネティック)な多様性がある。(3)生息環境の多様性。熱帯雨林、珊瑚礁等々という例が挙げられる。3つの多様性に共通しているのは、基本的に遺伝子レベルでの多様性であるという点で、文化の存在を完全に無視している。文化は独特の形で進化していくもので、個体が生存力をつけるための独特の手段でもある。例えばロッキー山脈にオオツノヒツジを野生復帰させる例を考えてみよう。それまでその一帯ではオオツノヒツジが狩られ、根こそぎにされ、絶滅させられていたとする。そこで保全活動家はこう言うわけだ―「よし、オオツノヒツジの生息場所としては適切な場所だな。他の場所からオオツノヒツジを捕まえてきたロッキー山脈に放とう。オオツノヒツジであることには変わりないんだから、そのまま野生復帰させて問題ないだろう」ってね。ところがこれには問題がある。そもそもその一帯は標高7000フィートで冬の寒さは残酷の極み。だからヒツジも越冬地域へと下山する必要がある。単に檻を開いてヒツジを放っても、ヒツジたちは自分が今どこにいるのか全くわからないでしょう。越冬地域がどこなのかも、食料や水のありかもわからない。要するに何にもわからない状態で放り出されるわけ。道端に犬を捨てるのと同じだよね。現に、ある生物種がある地域から消滅したときに、もしその生物種に文化がある場合(例えばさっき挙げた移住の文化ね)、別の場所から突然他の個体を野生復帰させようとするとものすごい数の死者が出る羽目になるんだ。例えばアメリカの南西部にハシブトインコを野生復帰させた事例を見てみると、保全活動家たちは飼育プログラムで育てて成熟させたインコを檻に入れて野生環境まで運び、そのまま檻を開け放った。そうやって野生に放たれたインコは一羽残らず死んでしまったんだ。インコは豊かな文化をもつ動物だからだよ。自分の住んでいる環境のどこにどんな食料があるのかをよく知っているし、危険な捕食者にはどういう種類があって、どこが危険地帯なのかも心得ている。こうしたことをインコは密接な社会関係を通じて学んでいく。初めは両親についていくところから出発して、後に社会集団の一員となることによってね。そういう事実を踏まえた上で仕事をしないと、保全を試みても多くの死者や被害を生むだけになってしまう。反対にそうした事実を考慮に入れて動けば、保全活動もとてもうまくいくはずだよ。
ガウォレキ 『野生になる』でサフィーナはマッコウクジラを取り上げています。しかしサフィーナが野生動物の生活における文化の重要性に気がつくきっかけとなったのは、実はシャチでした。
サフィーナ こういうことを考えるきっかけは、シャチについての科学論文を読んでいた頃にやってきた。そこでは世界中のシャチたちが一つの生物種として一緒くたにされていた。もう20年以上も前のことだけど、こういう論文を読んでいく中で、太平洋の北西部に住むシャチには鮭しか食べないシャチと(アザラシのような)哺乳類しか食べないシャチがいることがわかった。この2種類のシャチたちは社会的な交わりをもたないだけでなく、積極的に互いを避け合ってもいる。中には集団として魚しか食べないシャチたちもみつかった。家族同士が集まって小さな群れを成し、小群が集まって共同体を作るが、隣接する共同体同士では互いに避け合っている。
この状況を遺伝子的に見てみると、魚しか食べないシャチと哺乳類しか食べないシャチはもう何千年も交配していない。そもそも生物種は「野生で出会ったときに交配できる・しうる個体の集合」として一般に定義される。この場合、文化のみがシャチ同士の交配を妨げていた。狩りに基づく文化的な相違があったわけだ。異なる狩りの文化をもっていた、というべきかもしれない。魚を狩るのと哺乳類を狩るのとでは方法が異なるからね。魚を狩る場合はみんなで集まってたくさんの音を出す必要がある。音波を積極的に使えば魚たちは怖がって一箇所に集まる。するとたくさんの魚を一度に捕まえることができるようになる。対して、哺乳類を狩る場合はなるべく静かにやらないといけない。小さな集団―20頭とかではなくて3頭程度の小さな集団―を作って、ほぼ完全な静寂を保ち、音波はなるべく使わず、獲物に聴き取られないようにする。この2つの狩りの文化は共存しえないんだ。魚派と哺乳類派が一つの場所でそれぞれ獲物を狩ることなんてできない。お互いの邪魔になってしまうからね。だからシャチの集団は互いを避け合い、こうして別々の進化の軌道に乗り、もはや交配をすることもなくなった。
僕がまだ学生の頃に習ったドグマでは、生物種が進化の過程で枝分かれしていくためには、まず種族内の一部の集団がその他大勢から物理的に切り離される必要がある。こうしてこの集団は他とは異なる進化の軌道に乗り、進化的な圧力の差異が生じて、進化において有利になるための行動や身体的特徴も独特のものとなる。ところがシャチの場合は、個体同士が互いに避け合っているわけだけど、文化主体の進化の軌道が生じているわけだ。それは大学院生時代に僕が教わったドグマとは画期的に異なる結果だ。きっと似たような事例は他にもたくさんあるはずだと当時の僕は思った。今回この本を書くにあたって僕は文化の本質、文化をもちうる生物の種類、文化の実際の目的、文化の実際の働きといったことをたくさん学んだ。中でも、進化や生物種の多様化の過程に文化が絡んでいる生物種の多さには驚かされたよ。進化生物学の研究者たちはほぼ誰も今までこれに注意を払ってこなかったんじゃないかな。
ガウォレキ ところで、『野性になる』でマッコウクジラとコンゴウインコとチンパンジーという3種に注目した理由は何だったのでしょうか。
サフィーナ そうだな… まず文化をもっていることで有名な動物から出発して、その中からさらに研究調査が進んでいて情報が豊富な生物種を選ぶ。そこからさらに、今度は僕が研究者たちと一緒に現地で長期間観察できるような動物種をみつけていく。ここまで絞ると候補リストもかなり短くなる。文化をもつ生物として研究されていて、かつ僕が長期間実地調査できるような環境に住む生物種は10種もいなかったんじゃないかな。選択の幅は決して広くない。それでも、なるべく幅の広い種を選びたかった。なんて言うか… 西アフリカで哺乳類を3種、という感じの選択にはしたくなかったわけだ。生物種同士が似すぎていたらつまらなくなってしまうと思ってさ。だから海から1種、陸から1種、そして空から1種という風に選んだ。コンゴウインコについては、ペルーで野生のコンゴウインコを初めて見たときに衝撃を受けてね。というのも、僕はそれまで鳥類の研究を専門としていたんだけど、一団となって飛んでいるのを眺めたときに一目でつがいを見分けることができて、しかも飛んでいる本人たちも自分のパートナーをしっかり認識しているような鳥にはそれまで会ったことがなかった。コンゴウインコの場合はそれが一目瞭然で、例えば12羽が川の上空を飛ぶときにもほぼ100%の確率で6つのつがいが飛んでいく。それが僕にはとにかく驚きで。もともと、コンゴウインコは採用の第一候補ではなかった。文化をもっているかどうかがそれほどはっきりしていなかったし、文化をもつ生物として研究された形跡もない。それでもインコたちを自分の目で観察するうちに、僕にはあいつらが自分たちのアイデンティティをはっきりと自覚しているように思えてきた。それに飼育環境での―それは往々にしてとても狭苦しい環境だけど―インコの行動の多彩さを見れば、あいつらがもつ行動力がいかにずば抜けているかもわかるでしょう。そのときに僕はふと思った―インコをよく知る人たちと一緒に然るべき見地からあいつらを観察すれば、文化的な側面を明るみに出すことができるんじゃないか、ってね。結果としてそれは僕の想像をはるかに超える素晴らしい成果につながったんだ。
ガウォレキ 本書でサフィーナは人間の文化にとっても明らかに大切な目的を軸に各動物種の文化を展開しています。これはとても面白い試みです。例えばコンゴウインコの場合は、美の知覚がインコの文化に与える影響を論じています。また進化の過程でインコが美しいと感じるようになったものごとをなぜ人間も美しいと感じるのか、という問いも立てています。
サフィーナ 生物界における装飾的な美、例えばコンゴウインコのもつ奇抜な色彩は、意図的な選択の積み重ねによって生み出された美なんだ。何世代ものインコがほぼ外見のみに基づいて交尾の相手を選んでいく。人間の場合も同じだよね。デートアプリなんかでは写真がとても重要視されるし、誰かと初対面したときにも第一印象は外見で決まることが多い。交尾でも身体美はとても大切だ。身体美というものは途方もなく長い時間をかけて選択されてきた。特にインコの場合、一つ面白い点がある。アメリカ大陸にはたくさんの種類のオウムがいるわけだけど、そのほとんどが緑色をしている。タカやハヤブサに食べられてしまうくらい小さいから、迷彩を身にまといカムフラージュをしているわけだ。対してコンゴウインコは身体が大きい。おかげでタカやその他の捕食者もあまり心配しなくていい。ただ身体が大きいというだけでかなりの捕食者を無視できるのね。そして爆発的に色鮮やかになった。どうして爆発的に色鮮やかになったのか? インコは色彩豊かなインコを美しいと感じる。外見で交尾の相手を選ぶ。つまり「淘汰=選択」の産物だ。鳥類の多くはオスが色鮮やかでメスが迷彩をまとうものだけど、これはメスがオスを外見で選んでいるからなんだ。そこでは生命による「選択」が行われている。
わけても不思議なのは、美の範疇に入るものごとには奇妙な普遍性があるということ。コンゴウインコの美しさは僕ら人間にとって、あるいは人間の審美判断にとって何か意味をもつ必要はないはずだけど、なぜか実際は意味をもってしまう。最も不思議な例として、花が挙げられる。人間は花を見て、花の香りを嗅ぎ、花の外見や香りに魅力を感じる。でも人間は花にとって何か役割を果たしているわけではない。花は受粉媒介者(pollinators、蜂や蝶等々)のために存在する。受粉媒介者を引き寄せるために存在しているわけだ。花の外見や香りも受粉媒介者との関係性によって決定されてきた。人間にとってはまったくどうでもいいはずのものなんだ。ところが、僕らの美観には神秘的とすら言えるような普遍性がある。思うに、世界はきっと他の動物たちにも美しく映っている気がするし、自分の生息場所を特に美しいと感じるんじゃないかな。ちょうど人間が自分たちの住んでいる場所にまつわるものごとを最も美しいと感じるのと同じようにね。不動産価格を見れば、人間の生息場所として何が優れているかが一目でわかる。樹林があり、水に面しており、捕食者が身を隠せないような広大な土地が好まれているでしょう。それは人間が進化を遂げてきた場所でもある。サバンナの真ん中で二足歩行を始めた動物として、今もなおそのような生息場所に最も高い値段がついているわけだ。それは偶然ではない。こういうことにはすべて深い理由があるんだ。
繰り返すけど、美しいとされているものごとには長い歴史がある。その奇妙な普遍性には本当に心を動かされるね。もう一歩問いを深めてみようか。花は受粉媒介者に対して魅力的に映ることで具体的な利益を得る。受粉媒介者がやってきて、花が受粉できる。種が生まれて、子孫を残すわけだからね。そこには実践的な利益がある。ところが、他者から美しいと思われても何の報酬もないはずなのに、なお僕らに対して美しく立ち現れてくるものごとが存在する。それは日の出かもしれないし、青い空と白い雲かもしれない。木の葉が風ですれあう音かもしれないし、満天の星空かもしれない。こうしたものごとを美しいと感じる能力が人間の心には備わっている。世界に美が存在するおかげで、人生が生きるに値するものとなる。仮に世界に全く美が存在せず、食料の獲得のみが人生のすべてだったとしたらどうだろうか。食料を得るために働き、他の生き物に食われないように気をつけるだけが人生のすべてだったとしたら。それ以上の報酬が何もない人生など、ほとんど生きるに値しないと言ってよいのではないか。思うに、僕らの精神には美を生み出す能力が備わっている。美とは対象に物理的に備わっている性質ではなくて、精神=心の中にのみ生じる現象だからね。僕らの精神に美を知覚する能力が備わっているのだとすれば、それはこの世界で生きてゆきたいと思えるようになるために生まれた力なんだと思う。美のおかげで僕らは生存できているのだとさえ言ってよい。
美にも色々ある。物質・身体の美、感情の美、愛する人や子どもたちと一緒にいることの美。こんな具合に色々な美がある中で、僕らの精神を満たすのは世界の美であり、そこから僕らは至高の喜びを感じるものだ。美の知覚は喜び=快楽をもたらす。そのおかげで、苦しみの多い人生も生きるに値するものとなる。
ガウォレキ サフィーナはチンパンジーが文化を通じて平和を維持する様子についても書いています。
サフィーナ チンパンジーは共同体の中で暮らす動物だ。普通の共同体には数十匹程度のチンパンジーがいるけど、ときどき数百匹にまでのぼることもある。とても親密な関係を築く個人もいれば、共同体の内部でもわりと隅っこでこじんまりとしているやつらもいる。誰が自分の共同体に属していて誰が属していないのかを判断する能力はみんなが共有している。これはとても大切なことで、というのも隣接する共同体は互いにとても攻撃的に―場合によっては死者も出るほど攻撃的に―なるものだからね。あとチンパンジーの共同体はオスによって支配されている。だからオスが野心を燃やすようになるんだ。トップの地位やステータスを目指して、おぞましい争いが繰り広げられる。いつも競争や喧嘩がある。チンパンジーの社会で生きていくにはこういうメロドラマに付き合わないといけないわけだ。では、支配的な地位につく望みが全くない個人は―暴力をふるわれ、低い地位のままで交尾もできずに一生を終える個人もいる―なぜこんな状況を受け入れるのだろうか。「馬鹿らしい。もうここにいるのはまっぴらごめんだ。他所に引っ越そう」と思わないのはなぜか。理由はいくつかある。まず、共同体には利点もある。領土(テリトリー)を守り、領土内で食料や水が確保できる。人間ともかなり似ているよね。生まれた地域で何とかうまくやっていくしかない。共同体を離れて亡命者として生きていくのはやっぱり難しい。国や共同体には欠点も多いけど、そこから離れて生きるのは人間にとってしんどいことだ。同じことはチンパンジーの場合にも言える。集団に属している限り、いさかいは避けられない。重要なのは、争いをうまく解決する術を体得することなんだ。チンパンジーの文化では道具作りが有名だけど、個人間のトラブルをうまく修復して生きていく技術も重要な役割を果たしている。たとえその後もまたトラブルの再発は避けられないのだとしてもね。和解の術や、和解を念頭に置いた行為を認知する力がチンパンジーには備わっている。仲介役を演じる個人もいる。こうしたことを意識すると、表層の向こう側にあるものごとが見えてくる。探究を続ければ続けるほど理解も深まっていく。少し大袈裟に聞こえるかもしれないけど、この世界に存在する生命のすばらしさの解明にはどこまで行っても大きな知的満足感が伴う。とてつもなく長い時間の積み重ねによってようやく現在のものごとが存在しているのだということを実感する。「数千万年」という言葉の真の意味に気づけるようになるわけだ。
ガウォレキ サフィーナは家族というテーマでマッコウクジラの文化についても書いています。
サフィーナ マッコウクジラの文化で言うと、ハル・ホワイトヘッドの長年の研究活動のおかげで、文化の存在やその基盤については理解が進んでいた。ホワイトヘッドの弟子にシェーン・ゲーロという人がいるけど、彼はカリブ海ドミニカ共和国の海域での現地調査に数週間同伴する許可を僕に与えてくれた。マッコウクジラの社会組織はゾウのそれに似ている。家族の統率をとるのはメスで、オスは青年期を過ぎた頃に群れから離脱する一方、姉妹や娘たちや幼い子どもたちは一緒に生活を続ける。メスたちは海洋を数千キロメートルも旅する。そして数十年間も一緒にい続けるんだ。これは意志の力によるもので、決して偶然なんかじゃない。海は広く、見通しも悪い。だから一緒にい続けるためには努力が必要とされる。その努力をクジラたちは惜しまない。自分の属する集団をよく認識しているし、他者に向けて自分の家族や個人としてのアイデンティティをしっかり発信している。「私はここにいる」という声を発し、他のクジラたちもそれを聴いて声の主をしっかり識別する。「コーダ」と呼ばれるクリック音のパターンによって、クジラたちは互いの属する家族や氏族(clan)を理解するんだ。氏族内では家族同士の交流があるけど、氏族間での交流はない。つまり、氏族間での交配はないんだ。氏族内の家族は互いに交配することもある。氏族間では家族交流もなく、生態学的に異なる行動をとり、旅の仕方も異なり、狩りの仕方も異なる。それは文化の相異として理解できる。同じ慣習に従う者同士が交流し、慣習の異なる者たちは互いを避け合う。
なぜマッコウクジラたちはこういう生き方をするようになったのか、という問いは面白い。生態学的(エコロジカル)な基盤ももちろんある。子守の文化も一役買っている。他の大きなクジラにはない文化だ。他の大型クジラたちは、繁殖地や出産地を目指してとても長い旅をする。食料がない場所で子どもを生むんだ。食料がないおかげで、捕食者の心配をしなくて済むからね。子どもたちは母親についていくことで旅の経路を学ぶ。こうして他の大型クジラでは旅の経路の文化や食料のありかが継承される。対してマッコウクジラは全く別の方法を採用している。食料が豊富な海域で出産や生活をするんだ。ただし、そこには一つ条件もあって、食料は水深2000~3000フィートまで潜らないとみつからない。子供たちはそこまで到達できないんだ。大人たちにしか行けない領域で、毎時間50分は食料のある場所まで潜り、狩りをし、息継ぎと休憩のために再び海面に戻ってくるだけで過ぎていく。それを何度も繰り返す。小さな子どもたちには到底無理なことだ。だから海面で待機するわけだけど、そうするとシャチに対して無防備になってしまう。そこへ子守の文化が出てきたわけ。血縁者だけでなく互いに広く親しい家族集団に暮らし、母親が狩りをしに潜っている間は数頭の子どもたちのお守を必ず誰か他のクジラがするようになっている。母親の姉妹や叔母にあたるクジラが子どもの面倒をみてくれるわけだ。マッコウクジラの文化の合理性はこういうところから来ている。そういう文化の中であいつらは生きている。そもそも人間がこれを解明できたこと自体が驚きに値する。なぜって、マッコウクジラの文化は実に微妙で細かいものだからね。クリック音のパターンの解析だけでも大変な作業だと思うよ。
ガウォレキ サフィーナも言うように、ハル・ホワイトヘッドやシェーン・ゲーロを始めとする研究者たちによるマッコウクジラの研究の成果は本当に驚くべきものです。次はハル・ホワイトヘッドの研究活動についての話に耳を傾けてみましょう。
ホワイトヘッド 私はクジラの社会制度の研究から出発し、さらに問いを広げました。他の生物種の社会制度や、さらに一歩進んで文化の研究に踏み込んだのです。文化とは社会制度を通じて個人から個人へ伝達される情報のことですからね。それがクジラや他の動物においてどう機能しているのかを解明し、ひいてはそれが進化や生態学や保全活動、また倫理にすら与えうる影響を考えてきました。
ガウォレキ マッコウクジラに特化するようになるまでの経緯も話していただきました。
ホワイトヘッド クジラにのめりこむようになったきっかけは、もともと船に乗るのが好きだったということ、また「一緒にクジラに関する情報収集をしましょう」と招待してくださった研究者たちとの出会いです。とても楽しい航海で、そこからクジラに深い関心を抱くようになりました。私は沖に出るのが好きだったので、海岸からなるべく離れたところに住む動物を研究するのは理に適っていました。もうずっと前、1980年代の頃のことですが、自前の船に乗ってマッコウクジラの研究をする機会に恵まれ、この研究活動はそれ以来私の人生の核であり続けたのです。海でクジラたちと一緒に月日を過ごし、クジラの生活の解明に努めること。中でもマッコウクジラに魅かれた理由は2つあります。まず、とにかく特別で不思議な生物、とても極端な動物なんです。次に、マッコウクジラのもつ数々の極端な特徴がどうやって一つの生へと収斂していくのか、進化生物学者として解明したいという思いがありました。マッコウクジラが今のような形で生きるようになった理由は何なのか。それは個人として、生物種として、そして社会集団として、マッコウクジラについて何を物語っているのか。生態学や保全活動への含意は何なのか。クジラたちはとにかく謎に包まれているんです。「やつらはダイバー(潜る者)ではなくサーフェイサー(海面に上がってくる者)なんだよ」と言った人がいましたが、言い得て妙です。生の時間のほとんどを海の深部で過ごすわけですから。海面に出るのは息継ぎをするためだけで、それは哺乳類である以上仕方がない。そして海面よりも遥かに下の領域で、謎に包まれた未知の生活を送っているわけです。マッコウクジラたちは社会生活を海面近くでおくる。それはクジラたちにとって大切なことですし、私たち人間にも比較的わかりやすい現象です。クジラたちは友人関係を重んじる生き物です。人間よりもクジラの方が友だちを大切にする傾向があると言えるでしょう。クジラたちは互いに音を出し合い、触れ合い、キスをしたりして社会的な結束を確かめ合います。社会空間はクジラたちの生命線なのです。
ガウォレキ マッコウクジラの文化を理解するにあたって、生活環(ライフサイクル)や社会構造についてホワイトヘッドに話していただきました。
ホワイトヘッド マッコウクジラ社会の基本的な単位は「社会単位」(ソーシャル・ユニット)と呼ばれています。社会単位とは要するに家族のことで、成熟したメスのクジラとその子どもたち―幼児から10代の子どもまで―によって構成されています。ほとんどの場合メスは同じ社会単位の中で一生を過ごします。母親やその他のメスの親族たちと時間を過ごすわけですが、共同体の結束はとにかく強い。数千キロメートルも海洋を旅する遊牧民的な生涯をおくる中で、家族が一団となって行動し、共に食事をし、一緒に子どもたちの世話をする。また食料を得るために海面から離れて深く潜っていくとき、母親は子どもたちを海面近くに待たせておくわけです―まだ40分も海の中に潜り続ける力は子どもたちにはないからです―けれど、その間にも他のクジラたちが子守をし、授乳をする。シャチのような捕食者に攻撃されたときにも、共同体として防衛にあたる。陣形を組んで協力する。マッコウクジラのメスは共同体に深く根ざして生きているのです。
また、マッコウクジラはゆっくりと繁殖する生き物です。メスは12歳くらいで初めて妊娠し、その後4,5年に一度くらいのペースで身篭ってゆき、40歳代で子どもを産むのを止め、その後もさらに30年ほど生きてゆきます。ある意味私たち人間の生涯と似ていますね。それでも、マッコウクジラの家族の絆は特別です。また繁殖率―赤ちゃんを産める速さ―も人間より低い。さらにはオスの生き方に大きな違いがある。10歳から12歳くらいでオスたちは母親や家族の元を離れ、より冷たい海域へと移住します。家族が熱帯地方の周辺で生活するのに対して、オスたちは成熟するにつれて北極や南極を目指して泳ぐようになります。今私がいるここノバスコシア州ではオスのマッコウクジラしか見当たりません。それほど年をとってはおらず、ほとんどがせいぜい10代後半か20代前半くらいです。ところがさらに北に行き、ラブラドル地方やグリーンランドにまで到達すると、オスたちもより大きく、より成熟し、より孤独な生活をおくっています。母親の元を離れて間もないうちは、オスたちもそれなりにまだ社交的です。とても社会的な生活空間で育ってきた名残りで、他のオスたちとも社交性を保つのです。年をとるにつれて社交性は薄れてゆき、より孤独になり、身体も大きくなります。成熟した大人のマッコウクジラのオスは、メスの3倍もの大きさとなるのです。
ガウォレキ ホワイトヘッドはマッコウクジラが社会的結束を確認する際の「音」の重要性を指摘しました。中でも重要なのは「コーダ」と呼ばれる音です。
ホワイトヘッド コーダの話をしましょうか。クジラの歌と聞くと、私たちは複雑で美しい音色を思い浮かべるものです。それは決して間違いではありません。ザトウクジラの歌、ひいてはホッキョククジラの歌さえも、浮世離れした美しい音色をもつことがしばしばあります。対してマッコウクジラの歌は単なるクリック音のパターンにすぎないことが多く、表層的には単調に思えるかもしれません。マッコウクジラの前頭部には、メスの場合は全身の4分の1、オスの場合は全身の3分の1もの大きさの鼻、地球上で一番大きい鼻がついています。科学者だけでなく、19世紀の捕鯨者たちもこの巨大な鼻、文明世界の無数のオイルランプに明かりを灯したあの油で満たされたこの鼻についてあれこれ考えをめぐらせたものです。現代では、この巨大な鼻は音波装置であることがわかっています。主に食料探しに使われるのですが、他の行動パターンに入っているとき、すなわち海面にあがってきて社交的になり、互いに社会的結束を確かめ合っているときにはクリック音を別の用途にあてもします。食料探しのときの「カチッ、カチッ、カチッ…」という一定のリズムではなく、社交の場では「カチッカチ、カチカチ」や「カチッ、カチッ、カチカチカチッ」という風なリズムを刻む。あるいは複数のコーダを織り交ぜることもある。2頭のクジラたちがそれぞれ別のコーダを奏で、2つのコーダを互いに重ね合わせるのです、デュエットのように。クジラたちは他にも様々な形でコミュニケーションをとるのですが、コーダはおそらく最重要な方法であると言えます。私たち人間にとっても、クジラの世界の入り口としてコーダは比較的わかりやすい。聴き取るのが簡単ですし、意味を推測するのもわりと容易だからです。モールス信号のようなものですから。それでも、研究を進めていくと面白いことが次々と浮き彫りになってきます。例えば、氏族ごとに独自のコーダのレパートリーが存在する。「アイデンティティ・コーダ」と呼ばれる音のパターンがあるのです。カリブ海の氏族を私たちは特に入念に観察してきたのですが、そこでは1+1+3―「カチッ、カチッ、カチカチカチッ」―というコーダがある。それはアイデンティティの認証だけでなく、コミュニケーションにも使われます。織り合わせたり、重ね合わせたりするわけです。クジラの世界への入り口として、コーダは本当にすばらしい。海の中でクジラが何をしているのかを見るのはとても難しいのですが、聴き取る場合はそれほどでもありません。コーダから私たちは本当に色々なことを学びました。
ガウォレキ 今回はリスナーの皆様のために2つのコーダの録音を用意しています。
ホワイトヘッド この2つの録音ファイルはガラパゴス諸島の海域から5年くらい前に採集したものです。コーダの典型例と呼べるサンプルです。他の録音ではあまりにも多くのコーダが重なり合っていて煩雑になることもあったり、あるいはクジラが遠すぎて音質が悪かったりもするのですが、それに比べ今回持ってきた録音は質が高いと言えます。1つ目の録音では、1頭のクジラが単独でコーダを奏でています。2つ目では、2頭のクジラがコーダを織り合わせています。1頭目がコーダを奏で、2頭目がコーダを奏で、継いで2頭が互いのコーダを重ね合わせるのが聴き取れるはずです。その後、次のコーダを2頭は一緒に奏でています。
ガウォレキ まずは単独のコーダを聴いてみましょう。
ガウォレキ つづいて重なり合うコーダの例です。
ガウォレキ ホワイトヘッドいわく、このような録音は研究調査において中心的な役割を果たしています。
ホワイトヘッド コーダを録音した後、そこからパターンを抽出します。今のところその作業は学生たちが手動で行っています。画面上に映った音の波にクリック音ごとに印をつけ、後続の分析に使えるような形で入力してくれているのです。現在、私たちはコンピュータ科学者たちに協力を仰いで以下の3つを実現しようと動き始めました。(1)音源からクリック音を自動的に抽出する。(2)コーダとそれ以外の音を区別する。(3)コーダを整理する。コーダを整理し、種類ごとに区別をつけ、変奏を識別するためには自家製のシステムを用います。マッコウクジラのクリック音には私たちにとって都合の良い特徴がもう一つあります。すでに述べたように、クジラたちはクリック音を鳴らすときに前頭部の巨大な鼻を使います。クリック音に注目してみると、1音の中に複数の振動(パルス)が内包されているのがわかります。最も大きな音の振動、2番目に大きな音の振動、場合によっては3回目、4回目…という風に。そして振動ごとの時間の差から、なんとクリック音を鳴らしているクジラの鼻の大きさがわかるのです。マッコウクジラはそれぞれ異なる大きさの鼻をもっているので、クリック音からクジラの全身の大きさを推測することもできます。そこにはかなりの情報がつまっているのです。例えば、主な研究対象として8頭のクジラからなる社会単位がいるのですが、構成員の鼻の大きさは一頭ごとに異なります。よって、クジラごとにクリック音の振動の時差も異なります。そこから、コーダの主を特定し、その全身の大きさを推測することもできます。クジラたちの生活についてそこからまた色々なことがわかってくるのです。
ガウォレキ ホワイトヘッドによると、つい10年か15年くらい前までは、遺伝子レベルでの進化に影響を与えるほど複雑な文化をもつ生物はヒトのみであると信じられてきました。それでは、現代においては動物の文化の存在はどれくらい受容されているのでしょうか。
ホワイトヘッド 受容はどんどん進んでいると思いますよ。動物の文化の発見は鳥の歌声から始まりましたが、その後なぜか尻すぼみしてゆきました。思うに、鳥の歌声の専門家たちがとにかく徹底的に研究を進めたからです。鳥ならば捕まえて実験室に運び、精密な実験を行って鳥たちの学びあいの様子を調べることが可能です。そうした研究の成果は以前から存在していたのですが、あまり注目されませんでした。その後、今度は霊長類学者たち―サルや類人猿を研究する人たちですね―が参入してきました。サルに関する最初期の研究は1950年代に始まり、チンパンジーに関してはジェーン・グドールやグドールの同僚たちによって始められました。論争に火がついたのもその頃です。あの頃に何が起こっていたのか、整理してみましょう。まず、こうした研究は実験に基づいていないではないかという声がありました。鳥の場合は統御の行き届いた実験ができたわけですから。類人猿やサルに対しては、始めこそ実験はされていませんでしたが、後に飼育された動物たちで実験をしたり、場合によっては野生の動物を相手に巧妙な実験がされたりもしました。霊長類が人類ととても近い関係にあったという点も重要でした。当時の人類学者たちは、人間とその他の生物を分かつ要素は文化の有無であるという仮説を広く信じていました。そのため、こうした研究は人類学者にとって一番触れてほしくない公理を揺るがすことになってしまったのです。チンパンジー文化の研究の先駆者たちは特に大変な思いをしたものです。20年ほど前に私が同僚たちと一緒にクジラの文化という概念を持ち込んだときにも、かなりの反発を受けましたが、それでも霊長類学者たちの仕事は大きな支えになりました。
今では至る所で新たな文化が発見されています。例えば、マルハナバチにも複雑な作業の仕方を学び合い継承する力があることがわかっています。つまり、文化の一形態がそこにあるのです。社会に定着した行動様式としての文化の存在は、もはや動物学者たちの間では共通認識となりつつあります。
ただし他の学問分野では必ずしもそうではありません。別の定義が用いられることも多いからです。例えば、人類学者は文化を人間の活動様式として定義するでしょう。こういう場合は議論の余地がありません。人間の活動様式なのであれば、他の動物は当然文化を持ちえません。これはそれ以上議論しても意味がないものです。定義上の問題なのですから。また心理学者の中には社会的学習のプロセスに注目する人たちもいます。一匹の動物が別の動物と一緒に時間を過ごしたり、別の動物を観察したりしてある行動を学びとっていく。一般に、社会的学習には2種類あると言われてきました。まずは「模倣」(imitation)―他の動物がしていることの真似です。そして「教育」(teaching)―他の動物が学習の手助けや後押しをしてくれる場合です。どちらも伝統的な重要概念であり、人間の文化の構成要素であり、他の動物にはみられない特性であるとされてきました。こういう見方もしかし最近では廃れてきています。ミーアキャットやシャチ、場合によってはアリさえも教育をすることが今ではわかっている。模倣についても、かなりの数の生物種で他の動物の真似とみられる行動が確認されています。研究は着々と進んでいるのです。
それでもなお抵抗を示す同僚がいるのも事実です。私はよくこう言います。「文化は継承媒体の一種なんだよ。動物のあり方を変えるという意味では遺伝子と似ている。ただし、遺伝子による継承とは異なる回路をもってもいる。遺伝子の場合は親から子へ継承がされるけど、文化の場合は親から子だけではなく、教え手から学び手へ、あるいは同胞の間で、あるいは人間の場合はインターネット上で影響力のある人からネット社会へという具合に継承がされるんだ」という風に。
ガウォレキ 動物の文化について学び、複雑な文化や社会的学習能力をもつ生物種を次々と発見していくのは良いことですが、ではこうした学びを保全活動戦略に反映させるにはどうすればよいのでしょうか。
ホワイトヘッド もちろん、保全活動との関連でも色々な角度から文化の重要性を指摘できます。むしろ、保全の現場で動いてきた人たちの方が文化の存在をよくわかってきたのではないかと私は思っています。それなりの数の生物種において、次のようなことが言えます。ある場所からある生物種が根絶やしにされてしまったとして、再びその生物種を復帰させたい場合、主な手段は2つある。1つ目は野生復帰(reintroduction)です。動物園などの飼育環境で育てられた動物を野生に放すことですね。2つ目は移植(translocation)です。他の野生地から動物を捕まえて対象地域に野生復帰させるというやり方です。さて、コンドルやプレーリードッグからアラビアオリックスまで、実に様々な生物種について以下のようなことがわかっています。つまり、ある地域や環境についての知識を全く持たず、またそうした知識を持っている他の動物との交流の場も持たない無垢な動物をそのまま野生に放した場合、無残な結果に終わることが多い。野生復帰も移植も失敗に終わり、すべての動物が死ぬという結果になることもしばしばです。対して、対象地域に経験豊かで生存の術を心得ている動物たちがいるならば、野生復帰にせよ移植にせよ、新入りの動物たちの生存率は格段に上がります。そのため、文化はとても重要な要素なのです。社会的学習を使う場合、まず対象地域に根ざしている生存者たちをしっかり守ってあげること。そして生存者たちに新入りの動物たちの教育をしっかり任せること。代案としては、人間に動物のふりをさせて新入りに教育を行き届かせるという策もありえます。こうすれば保全活動の成功率もぐっと上がるでしょう。
保全活動と文化が互いに重要になるもう一つの例は、野生生物の保全です。そこでは生物多様性の維持や促進が目標となります。このとき「多様性」とは自然状態の生命のあり方や所作の多様性を指すわけですが、クジラだけでなく霊長類やゾウや鳥類も含む多くの生物種においては文化の存在がそうした多様性を支えていることがしばしばある。つまり、自然環境におけるこうした動物の行動は、その動物がもつ文化史のようなものによってかなりのところまで決定されるわけです。多様性はそれ自体としても価値があります。例えば、私たちは人間の文化の多様性を守ろうと努力をしている。文化的多様性を重んじるからこそ、私たちは絶滅寸前の言語や古代の遺跡などの保護に努めるものです。しかし多様性のもつ価値はそれだけではない。人間が地球環境を脅かす存在となっていく中で、多様性―例えば先住民族の生活様式の保存―は手段としての価値も持ちうるのです。例えば、エルニーニョがガラパゴス諸島を襲ったときの「プラスワン」氏族と「ノーマル」氏族の反応を比べてみましょう。エルニーニョとは海水の温度が通常よりも極端に上がる海洋現象です。ガラパゴス諸島では数年に一度の割合で起きる現象ですが、マッコウクジラも含め海洋生物の大半にとってこれは実に都合が悪いことなのです。私たちはここで異なる氏族の食料調達の成功率に着目しました。比較的水温が低い通常年の場合は、ノーマル氏族―「カチッ、カチッ、カチッ、カチッ」というコーダを鳴らすクジラたちです―の方がプラスワン氏族よりもうまくやっていました。ところがエルニーニョの年が訪れて海の水温が上がり、生活が厳しくなってくると、状況は反転します。通常の年にはそれほどうまくやっていなかったプラスワン氏族の方がノーマル氏族に比べ食料調達の成功率の低下を最小限に抑えることができたのです。人間が世界に変動をもたらし、将来的な海洋の状態がエルニーニョによって体現されているのだとすれば、マッコウクジラのような生物がもつ行動様式の多様性―それは文化に根ざした多様性です―はとても重要になってきます。クジラの世界にこれから起きること、私たちの世界に起きていることを受け止めて生存していく道を文化が開いてくれるからです。